「もっと頑張りなさい」や「努力が足りてない」などの言葉は誰もが言われたことがあることだろう。通常努力には苦痛が伴うものであるが、それが良しとされているからそういわれるのだと思う。しかし本当に努力はよしとされるべきものなのだろうか?今回はそれについて私なりに考えてみようと思う。
努力とは
まず努力とは何かということについて考えよう。あなたは「努力」というとどういうことか説明できるだろうか。調べてみると「目標の実現のため、心身を労してつとめること」とあった。まず、努力とは目標実現のための「手段」であると言える。そしてそれは心身を労することであるらしい。そもそも人が何かの行動をするときは目標なくして動くことはないし、何もせずに達成されることないのだから我々の行うものは基本努力なのかもしれない。
しかし一概にそうとも言えない。例えば「水が飲みたい」と思ったとき「水を飲む」という目標を元に「コップを準備して水を用意する」という行動をとっている。上の定義に従えばこれを努力と呼べそうだがこれに賛同する人は多くはないと思う。ではなぜこのような行為を努力とは呼ばないのだろうか。
「努力した」と言えるのはどんな時だろうか。仕事を長年してきて億万長者になった、とか勉強をたくさんして難関大学に合格したなどが連想される。努力が手段であることを踏まえると働く、勉強をするという行為が努力となる。どちらも通常辛いものでできればしたくないものだと感じるだろう。ここから努力は苦痛を伴うものだと推測される。
実際に自分の仕事が大好きで遊び感覚で仕事ができたり、勉強ができるとしたらそれを努力とは呼ばないだろう。
つまり努力は達成したい目標のための「手段」であり、それは苦痛を伴うものである。そして目標達成のための手段を「苦痛」として表現するのではなく、「努力」と表現するこである意味自分の行動を美化しているのではないか。
なぜ努力するのか
努力が辛いことであるのならば、なぜ我々は努力をするのだろうか。通常辛いことはしたくないはずでそれをいかに回避するかを考えるはずだ。ではなぜ努力をするのだろうか。
やはり苦痛を伴っても達成したい目標がある時我々は努力をするのではないだろうか。逆に努力をしないときは二パターンある。一つは目標がないときである。初めに述べたように努力は目標を達成するための手段であるからだ。もう一つは努力をするときに伴う苦痛が目標を達成しようという気持ちを阻害したときである。大きすぎる苦痛を受ける、もしくは受けると予想される場合努力をするのをやめることがある。
ただ、努力をしないことを「目標を諦める」というと聞こえが悪いが、苦痛からの解放であると考えるとさも悪いことのようにいうのは間違っていると思う。
努力はすべきなのか
努力をしている人の方がしていない人よりも評価されている傾向にあるように感じる。これはおかしいことである。努力はただの手段に過ぎず、目標がなくてはする必要のないものであるからだ。どうしても努力しないことを責めたいなら、目標がないことを責めるべきである。もっともそれもおかしいことであるが。
また、努力による苦痛に耐えられないことを責めるのもおかしいことである。なぜなら苦痛を強要していることと同義であるからだ。親が子供に「もっと努力しなさい」というのは親が決めた目標に対して子供が苦痛を感じさせていることと同じだ。そしてそれは当然のことであり、しないほうが悪いと捉えることに私は反対だ。自らがしたいと思った目標に対して、それを達成するための苦痛を受け入れることでそれが努力となると考えるからだ。
努力を強要したりよしとする考えは危険である可能性がある。なぜなら努力が目的となるからだ。努力はあくまで手段であるのにそれを目的としてしまうことはおかしいことである。それに加えて努力は苦痛を伴うものである。よって苦痛を感じることが美徳とされてしまうからだ。実際に現実は努力したものが偉いと言われているし、危惧するべき状況になっている。
結論
努力はただの手段である。そこに素晴らしさもなければ忌むべきものでもない。ただ何かしらの目標を達成するために伴う苦痛を受け入れられる時に努力をする、というただそれだけである。
決して努力を強要したり美化すべきでもない。努力はそれ自体が目標にはなり得ないのだから。
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